畳表(びんご畳表)の歴史

              
B.C100 頃   北部九州の甕棺埋葬にムシロを使用。
A.D350 頃   円照寺墓山古墳(奈良県)、金蔵山古墳(岡山県)でムシロを使用。
450 頃   立洞第二号古墳(福井県)、月の輪古墳(岡山県)でムシロを使用。
600 頃   この頃中国の正史『隋書』の東夷伝に「草を編みて薦(こも)となす、雑皮にて表を偽り、縁るに文皮を以てす。」の記載あり。
    歴史絵巻01
    (広島県立歴史博物館 平成2年「秋の企画展 備後表−畳の歴史を探る」参照)

680   この頃本郷平廃寺の(広島県)のせん(煉瓦、タイルのようなもの)の制作にムシロを使用。
712   『古事記』に菅畳、皮畳、キヌ畳の記載あり。
720   『日本書紀』に八重席薦(むしろこも)の記載あり。
750   この頃『万葉集』に木綿(ゆう)畳、八重畳などの記載あり。
770   『続日本記』に備前国出身泰刀良が長年畳を作成した功により外従五位下の位をもらったという記載あり。
850   この頃寝殿造の邸宅内に置畳が置かれる。
927   『延喜式』のなかに広席、狭席、短畳などが記載され、掃部寮には位によって畳の厚さや緑の色が規定される。
1000   この頃『枕草子』に「御座という畳のさまして、高麗などいと清か」という記載あり。
1106   この頃『今昔物語』に藺笠などの藺製品の名が登場する。
    歴史絵巻02
    (広島県立歴史博物館 平成2年「秋の企画展 備後表−畳の歴史を探る」参照)

1191   後白河院が備後国河北荘へ畳、御座などの貢納を命ずる。
1194   高野山が備後国大田荘へ半畳十二帖の貢納を命ずる。
貞和3年 1347    「師守記」(大外記中原師守の日記)の貞和3年8月23日の項に、亡父師右の墓前供養の僧へ、備後筵2枚の布施をした記載がある。

備後筵」の文字記載の文献は、長禄4年(1460)の「大乗院寺社雑事記若宮祭田楽記」に「備後筵10枚代一貫二百文(百二十文宛)」とあり、これまで、この文献が最も古いものとされていたが、「師守記」はこれより更に110年余も古い。

「備後筵」と言う特定の名称が付くことは、他地方の品との区別を明らかにするためのものであるから、商品的価値が高く、当時すでに有名であったことがうかがわれる。
    古文書
  大乗院寺社雑事記若宮祭田楽記の表紙と記事(国立公文書館蔵)
1420   『海人藻芥』に身分、位階による畳縁の使用規定が記される。
1460   『大乗院寺社雑事記』にはじめて「備後莚」の名がみられる。
1486   慈照寺東求堂に四畳半茶室がつくられる。
天文、弘治年間1532〜1557   山南村(現福山市沼隈町)で、水田にいぐさを栽培し、引通表を製織していた記録が残っている。

天正4年 1576   織田信長が安土に築城した六層の楼閣には、各層とも内部に畳を敷き、行幸の間には備後表に繧繝縁・高麗縁を着けた畳を敷いた。桃山文化の進行とともに、備後表の需要は急速に高まった。

慶長初期 1596   山南村菅野の十郎左衛門は廃物となっていた短藺の先を交叉させて、中指表(中継表)を製織することを発明、それまで畳表は引通表のみであった業界に一大革命をもたらした。

『舜舊記』から備後表が京都で名声を高めていたと思われる


1597   豊臣秀吉が尾道より畳表千枚の徴発を命じる。
慶長5年 1600
  安芸・備後の領主となった福島正則は備後表の製品改良に努め、慶長7年に幕府に畳表3,100枚を献上(献上表)したのを契機に、献上表の改め役(検査員)4名を任命し検査に当たらせた。

同時に『二十五疵之事』(畳表の選別基準を作成)「御畳表掛目之事」「御畳表堅間横間定法並何配表と申訳の事」等の布令で、畳表の不良品の選別基準、種類毎の重量・寸法やいぐさの選別基準を設け、製品の統一のための検査規格・検査制度により、備後表の不動の地位を築いた。


慶長8年 1603   幕梵舜日記などに、京都には多量の備後表が出回り、相当の声価を挙げていたことがみられる。
元和5年 1619   福島正則改易を命ぜられ、後任領主水野勝成も備後表の生産改良と増産に努めた。
元和8年 1622  

徳川家康から備後表9,000枚の買い上げ(御用表)があったことを契機に、水野勝成は『九カ条御定法』を定めた『二十五疵之事』も改良し、献上表の製織には、染土の産地指定、婦人の製織の禁止、藺草・染土の他領搬出や職人の他領縁組の禁止等、技術の他領への伝播の禁制を設けた。

一方、肥料代金や献上表の織村には、無利子貸付制度や農家保護・生産助長の施策を講じた。

天保4年 1647   福山藩の御用表の買上げ方法が改められ、江戸町人北村彦右衛門を備後表座と定めて備後表を調達させ、その中から優良品を選抜して御用表に当てた。

江戸の「備後表座」の設定は、畳表問屋の創始とみられ、これにより備後表が商品として全国に売出されるようになった。

正保4年8月から翌5年(慶安元年)6月までに買い上げられた畳表は、448,000枚で当時の織機数は1,609台であった。

正保初年広島藩主浅野光晟は、御調郡栗原村土居亦左衛門ほか1名を畳表改役に命じ、表役所を設置した。さらに、織村14ヵ村を指定し、織機の数を限定した。


寛文4年 1664   広島藩は畳表売品に代価の1割の運上銀を掛け、14ヵ村の織機数を170機と定めた。
   歴史絵巻03
    (広島県立歴史博物館 平成2年「秋の企画展 備後表−畳の歴史を探る」参照)

1684   幕府への献上が毎年備後の国沼隈郡内の村々に割り付けられる。
1697   第5代領主水野勝岑死去によって福山藩は公領となり、幕府から代官3名が派遣され、献上表・御用表を福山下屋敷で調達した。

宮崎安貞著『農業全書』が刊行され、備後地方の藺作法が広く紹介された。


元禄13年 1700   この頃から民家で畳の敷詰めが行われ、畳の消費が増大する。

松平下総守忠稚が福山に入封、御用表見役所を笠岡に移し、献上表は松平忠稚がその責に任じた。
また、笠岡では4名の表改め役を任命し、御用表は常石村敷名で船積みし、笠岡に回送して納入した。



元禄14年 1701   阿部伊勢守正邦が松平氏に代わって福山に入封、御用表は幕府が直轄し、献上表は阿部氏が先例のとおり取り扱った

宝永7年 1710   御用表改め役は笠岡表役所に、献上表改め役は草深村表役所にそれぞれ専属させた。

献上表改め役は明治期まで世襲となっていた。

正徳元年 1711   福山藩では献上表その他の製造販売に関して、自村のいぐさや藺苗はいっさい分譲してはならぬこと、表織村の男女下人に至るまで他領との縁組を許さず、日雇いでも他領に遣わしてはならぬこと。

表織りの農家へ他領からの奉公人を雇い入れてはならぬことなど、技術の他領伝播を厳重に禁止する郡役所の触れが出された。

また、他領表を福山領の表として取引することや、船積みについても規定し、権威の発揚のために厳しい禁制を設けた。


元文年間 1736〜1740   広島藩では御調郡に14ヵ村の織村を定め、織機数を360台に増加し、その他の地方での製織を禁じ、また、他地方とのいぐさの移出入を禁止した(畳表製織よりいぐさを売ったほうが利益になると農民が計算した)。

これらの取締りのため、尾道町に3ヵ所の畳表役所を設けた。献上表の検査項目は25ヵ条におよび、極めて厳重なものであった。


寛保2年 1742   沼隈郡26ヵ村の藺田面積は56町歩を記録した。
延享2年 1745   御調郡14ヵ村の藺田面積は27町歩、織機数873台を記録した
宝暦3年 1742   福山藩の御用表中に薄表、軽目表が混入していたため、幕府から詮議方を改め役に申し付けられたので、口上書、畳表由緒書が提出された。

これには、乾燥の際に雨天が多く、草丈も短く、光沢不良であったことを嘆いており、また、その頃の藺作法、製織の状況、畳表の種類、村別織機数などが詳術されている。


安永9年 1780   広島藩では「畳表御法則之次第」を出し保護策をとったが、御調郡内だけのいぐさでは不足したため、第二項但し書を利用して、備前長藺を移入し、これを扱う仲買、小売が尾道に10軒もあった。備前藺を使えば、品質が落ちるのと、正貨の流出となるのであったが、原料不足のため黙認の形であった。

1781   幕府御用達畳師伊阿貞高が備後表の現地調査を行う。翌年『殖藺図鑑』を作成する。

寛政年間1789〜1800   本多利明は、その著述「西薇事情」において、献上表・御用表の改良調達に終始した藩の施策を批判し、備後表全体の生産拡大、取引方法の改善、販路の開拓等を強調した。

明治5年 1872   藩政時代の厳重な取締制度や公用表の調達が一切廃止され、いぐさの生産販売が自由となった結果、いぐさの生産が増加し、畳表も粗製濫造となり、備後表の声価を失墜するに至った。

明治12年 1879   維新後の弊風を改めるため、旧福山領の備後表の問屋業者は、大阪商人と取引契約を結び、また、明治14年には問屋および営業者が連合して畳商同盟規約を結んで、取引の改善に努めたが、実効はあげ得なかった。

明治19年 1886   畳表の不況時代となり、県は同業組合の必要を認め、畳商同盟規約を解き、沼隈地区に備後本口畳表業組合を、御調地区に備後本場尾道藺蓆組合を設立した。

両組合の規約は、製品の品質や取引全般にわたり厳重な取締り規定を設けてあったが、規約励行に強制力がなく、後年活動不能に陥った。


明治22年 1889   沼隈郡今津村に松永綾筵舎(花筵工場)が設立され、各地で花筵製造が勃興し始めた。

明治26年 1893   農商務省農事試験場広島支場が沼田郡西原村(現広島市安佐南区祇園)に創設され、日本初のいぐさに関する試験研究が開始された。
明治31年 1898   岡山県から足踏織機を導入し、引通表も製織できるように改良した。
明治36年 1901   農商務省農事試験場広島支場の廃止により、広島県立農事試験場は、沼隈・御調両郡で委託試験を開始した。
明治39年 1906   沼隈郡神村の枝広菊右衛門が足踏織機を発明して特許をとり、明治末期にはほとんど足踏織機に転換した。
大正末期までに5,500台余を製作した。



明治42年 1909   組合活動を活発化するため、重要物産同業組合法に基づいて備後本口畳表業組合を廃し、畳表の規格の統一と検査事業に主力を注ぐべく備後本口畳表同業組合(御調郡内)を設立した。

組合には検査員を常置し、主要村落7ヵ所に検査場を設けて集合検査を実施、畳表1枚毎に地区内原料または地区外原料を明示した証紙の織り込みを規定した(沼隈郡内)。


明治44年 1911   広島県下のいぐさ作付面積は857町歩に増加したが、蛇紋病が沼隈郡主産地に激発した。

大正2年 1913   備後本場尾道藺蓆組合は、畳表の品質保持のため証紙の織り込みを企画したが、そのことで尾道側商人と御調郡生産者との間に紛糾が起こり、その結果、大正6年に生産者側は備後本場畳表同業組合を設立した。

大正7年 1918   広島県立農事試験場は、沼隈郡金江村、御調郡栗原村、安佐郡安村、双三郡和田村の4ヵ所に委託試験地を増設し、品種改良その他広範な栽培試験を開始した。

大正9年 1920   農商務省農事試験場は、広島県下の主要染土17種の精密な化学分析を行い、染土選択の科学的根拠を提供した。

また、広島県立農事試験場は、同年に沼隈・御調両郡内の染土29種、および、大正14年には全県下の原土25種、相互の配合28種の優劣を調査して、優良染土及びその配合割合を選定した。

備後表の評価が高いのは、この
染土選択に負うところが極めて大きかった。


大正10年 1921   沼隈郡本郷村の石井五郎氏はいぐさの先刈りを実行し、好結果を得たが、主産地ではあまり普及しなかった。

しかし、隣の岡山県からは次つぎと団体で視察に来村、石井氏は実地の講習を行った。


大正11年 1922   尾道藺蓆同業組合と備後本場畳表同業組合が合併し、御調、尾道の問屋、仲買人、生産者を包括する備後本場畳表同業組合が設立された。
大正12年 1923   大正10年頃から尾道市場に安価な中国産畳表が出回り、将来の強敵として不安がつのった。
広島県は大正12年夏、県農事試験場の熊田重雄技師や現地の技術員、委託試験担当者ら技術者5名を、15日間の日程で中国の蘇州、寧波等のいぐさ主産地に派遣、栽培及び製織状況を視察させた。

その結果、価格が安いので将来への不安はあったが、備後表に品質で対抗できるものでなかったため、無視する形で成行きを見守った。
結局、一時的な進出に終わった。


大正14年 1925   広島県西部安佐郡一帯のいぐさ産地で、安佐郡畳表同業組合(組合員4,098人)が設立された。

大正15年 1926   広島県立農事試験場はいぐさ新品種広島1号、広島2号、広島3号、広島4号の4品種を育成、翌年沼隈郡千年村に広島県立農事試験場千年藺草原苗圃を設置して、毎年新品種の増殖配布を行い、備後表の品質向上に貢献した。

昭和3年 1928   昭和天皇即位御大典に際し、沼隈、御調両郡から六配表など93枚を納入した。

昭和4年 1929   沼隈郡金江村に広島県立農事試験場藺草指導場が設置され、各種の栽培試験と技術指導が始められた。

昭和6年 1931   岡山県から備後地方に初めて動力織機が導入される。

昭和9年 1934   広島測候所松永臨時出張所を沼隈郡農会に開設、いぐさ収穫時期の降雨予報の業務を開始し、関係町村に速報することになった。

昭和10年 1935   広島県のいぐさ作付面積は1,528町歩に達し、戦前戦後を通じ、最高を記録した。

千年藺草原苗圃を広島県立農事試験場千年藺草分場に昇格、品種育成、栽培加工及びいぐさ跡地水稲などの試験を実施した。
広島県が初めにこれを創設したので、関係府県から大いに注目された。


    歴史絵巻04
    (広島県立歴史博物館 平成2年「秋の企画展 備後表−畳の歴史を探る」参照)

昭和11年 1936   備後本場畳表同業組合に備後本口畳表同業組合を吸収合併し、広島県畳表花筵同業組合と改称する。
昭和12年 1937   沼隈郡農会内に広島測候所松永支所が設けられた。
岡山県産原料の移入が2,250tに達し、県内自給度の向上が重要問題となった。
昭和13年 1938   広島県畳表整経工業組合が設立された。
昭和14年 1939   広島県が、藺筵検査規則を制定し、県営検査を実施する

動力織機の激増に伴い、備南動力織機組合を改組し、備後畳表花筵工業組合を設立、統制強化に伴う綿糸の配給事務などを行った。

11月広島測候所松永支所は国に移管、中央気象台松永臨時測候所となる。
昭和15年 1940   綿糸配給の円滑化のため、備後畳表花筵工業組合、広島県畳表花筵同業組合、広島県畳表整経工業組合が協議し、県庁内に広島県綿糸配給協議会を結成し、割当切符により整経をすることになった。

優良品種「
広島6号」が育成され、これが戦後の畳表の生産及び品質向上に貢献した。

いぐさ収穫期間中、松永臨時測候所は6時と12時の2回天気図を作成、福山市、尾道市、沼隈・御調・芦品各郡に対し、9時、15時の2回、今日・今晩・明日の予報を電話で通報。
また、驟雨の恐れのある場合は、至急電話または作業旗で通報し、これがいぐさ天気予報の原型となり、昭和19年7月まで続いた。

1942   広島県藺製品移出商業組合(統制組合)を結成する。
昭和18年 1943   広島県畳表花筵同業組合が解散した。備後畳表花筵工業組合は備後藺製品生産施設組合に改組し、生産統制及び生産資材の割当と配給を行った。

農林省は畳表の価格の不均衡、規格の不合理、生産配給の不円滑を是正するため、告示をもって改訂した。
この改訂により、備後表は岡山県その他各県の畳表価格に比較し5%乃至12%の高値が認められた。


昭和19年 1944    広島県立農事試験場千年藺草分場は戦時体制により廃止された。
広島県畳表整経工業組合は広島県整経施設組合と改称した。

いぐさ原料不足のため、過剰となった動力織機200台を満州へ輸出するとともに技術者を派遣した。
昭和21年 1946    広島県下のいぐさ作付面積は42町歩に激減した。

昭和22年 1947    備後藺製品生産施設組合は、県及び全国い製品統制組合の斡旋で広島県農業会に合併、広島県農業会い製品事務所として発足した。

沼隈郡瀬戸村(現福山市瀬戸町)に農林省西条農事改良実験所瀬戸試験地が、地元の土地、建物及び浄財の提供によって誘致設立された。


昭和23年 1948    3月に特殊農産物及び特殊林産物検査条例が制定され、県による畳表の検査が実施された。8月に指定農林物資検査法が公布され、県営検査から国営検査へ移行した。

広島県農業会い製品事務所は、新たに広島県い製品販売農業協同組合連合会として発足した。
物価庁告示で、
全い製品の統制が廃止された。


昭和24年 1949    畳表の公定価格が廃止された。畳表は県の重要な特産物であるため、県は統制撤廃後の畳表の振興を図るため、広島県い製品協議会を設立した。

7月にいぐさ天気予報を再開、一般への衆知方法は、1日4回のラジオ放送(驟雨の場合は随時)と信号旗によった。

農林省西条農事改良実験瀬戸試験地(昭和26年4月から広島県立農業試験場東部支場)では昭和39年まで信号旗を掲げ、3ヵ村へ電話で天気予報を伝達した。


昭和25年 1950   指定農林物資検査法に基づく検査対象品目から、いぐさ製品は除外された。

広島県農林水産物検査条例が公布され、国営検査から県営検査に移行し、広島県農産物検査手数料証票及び証糸規則を定めた。


昭和26年 1951   農林省西条農事改良実験所瀬戸試験地は県に移管され、広島県立農業試験場東部支場と改称、農林省指定いぐさ育種試験地として、事業はそのまま引き継がれた(昭和44年東部支場はい草試験地に改称)。

広島県い製品協議会を発展的に解消し、広島県い業振興会を新設し、この活動を促進するため、県は助成金を交付した。

県内の藺製品問屋業者の大同団結機関として、中小企業等協同組合法に基づく

広島県藺製品商業協同組合
が発足した。

畳表経糸整経業者の加工調整技術の向上、取引改善及び整経業者の地位向上を図るため、
広島県畳表整経工業協同組合が発足した。


昭和27年 1952    畳表の流通合理化を図るため、沼隈郡赤坂村農業協同組合に共販市場を開設した。
翌年以降逐次各町村に共販市場が開設された。


昭和31年 1956    広島県畳表生産者組合連合会が設立された

昭和32年 1957    広島県い業振興会を発展的に改組し、広島県い草い製品販売農業協同組合連合会、広島県藺製品商業協同組合、広島県畳表整経工業協同組合及び広島県畳表生産者組合連合会をもって
広島県藺業協会を組織し、本県い業振興の母体として活躍する。

広島県藺業協会発足に伴い、証紙、証糸は同協会名により県内で生産される畳表に織込んで製織させることを定め、備後表の消費地における品質保証を明確にした。


 昭和35年 1960    広島県畳表共販市場連絡協議会を発展的に解散して、新たに県下9ヵ所の共販市場が加入する広島県畳表共販市場連合会を組織し、農業協同組合共販市場の合理化を図った。

動力選別機が導入され、畳表の生産が飛躍的に増大することになった。


昭和36年 1961    広島県い業界の発展の拠点として、福山市今津町に財団法人広島県い業会館を設立、会館に会議室、共販市場等を設けた。

広島県い草い製品販売農業協同組合連合会は、広島県経済農業協同組合連合会に合併、同連合会い製品事務所として業務を実施した(42年同事務所廃止)。
昭和37年 1962    倒伏防止網掛栽培技術が普及に移された。

昭和40年 1965    備後表の年間生産量が1,000万枚に達した。

昭和46年 1971    いぐさ染土による珪肺問題が発生、予防措置として、作業場の換気、防塵装置を設けた。

昭和48年 1973    農林物資の規格化及び品質表示の適性化に関する法律(昭和25年法律第175号)施行により、たたみ表の日本農林規格が制定され、これに伴い広島県農産物検査条例の一部改正等が行われた。
備後表の年間生産量が1,299万枚と史上最高を記録した。


昭和50年 1975    いぐさ泥染機及び立詰式生いぐさ大型乾燥機が導入され、いぐさ栽培規模は拡大し、乾燥方式は天日乾燥から火力乾燥へ順次移行して行った。

昭和62年 1987    乗用型ハーベスタが導入され、収穫労力は著しく軽減された。

昭和63年 1988    いぐさの乾燥が火力乾燥になったため、いぐさ天気予報は本年から中止となった。

平成2年 1990    広島県立農業試験場い草試験地に設置されていた農林水産省指定いぐさ育種試験は、3月をもって熊本県に移管され、4月から農林水産省指定いぐさ現地選抜圃を担当することになった。

平成3年 1991    福山市熊野町に一発処理泥染め装置が導入された。
広島県立農業技術センター発足に伴い、県立農業試験場い草試験地は農業技術センター作物研究部に併合された。
平成4年 1992    備後畳表リーフレット35,000部を作成し、特長・機能・品質の見分け方を中心に写真入り説明をしたPRと広報活動に努めた。

平成5年 1993    農業技術センター福山圃場が本所へ移転。
農林水産祭に参加し、
びんご畳表が農林水産大臣賞を授賞されるようになった。

平成7年 1995    平成7年よりPL法防護策取扱説明書、国産表示マークを推進した。
「びんご畳表いろいろ」の製品を紹介したカラー刷りカタログの作成や国産表示マークの宣伝に努めた。


平成8年 1996    「びんご畳表いろいろ」の製品を紹介したカラー刷りカタログの作成や国産表示マークの宣伝に努めた。

平成9年 1997    特産い草、備後表産地推進協議会を発足し、生産者・流通業者・関係者が一体となり、もう一度「びんご表」の活性化対策運動を起こした。

平成10年 1998    「備後畳表の唄」と「踊」の制作・作詞、河野悦三・作曲、三島美知子・唄、九月順・檀上扶美子、踊、藤間流 テープを作成し、備後表のPRに努めた。
インターネット・ホームページの開設により備後表の歴史・特長・本当の良さを広く全国に情報を提供した。

平成11年 1999    手織中継表伝承式→寺岡文子氏から広川宏志氏へ
ダイアモンドレディー賞 伝統文化ポーラ賞受賞(寺岡文子氏)

備後畳表のカレンダー付ポスターを作成し、全国畳店へ配布して、PRに努めた。


平成12年 2000    セーフガードの対象品目となり、4月23日より200日間暫定的な発動が決定された。これにより輸入表との調整が図られることになった。

平成13年 2001    民営化による食糧事務所の畳表検査業務廃止に伴い(財)広島県い業会館が県条例による業務委託を開始する。

ひのみどりを奨励品種に採用。

松永駅南口に歴史と伝統を刻みこんだ「
びんご畳表の里」の記念碑を建立。この規模は畳一畳分の実物大。

平成14年 2002    福山商工会議所が行う、地域振興活性化事業に取組み、新製品開発として中継表動力織機の開発を初め、「新びんご中継表」を完成させ生産農家の短いいぐさの利用度を高めると共に新製品の普及に努めた。

平成15年 2003    びんご畳表の需要拡大事業として消費地の横浜新都市プラザ(そごう前)に於いて大展示会、イベントを大々的に開催し、「びんご畳表」のブランド化のPRに努めた。

平成16年 2004    大消費地 神奈川県横浜に於いて、消費地の動向を把握するため、1,000名からのアンケート調査を実施することが出来、今後の取組みに役立つことが出来た。

 平成17年 2005    中小企業活路開拓調査実現化事業に取り組み、洋風化が進み、フローリング部屋の増大に伴い、需要の高まりを予測して、高級置き畳の新製品開発を行った。

平成19年 2007    第46回農林水産祭に於いて、廣川宏志氏が栄ある内閣総理大臣賞を受賞され、びんご畳表が日本最高の地位に輝き、生産者、業界に新風を巻き起こした。

平成20年 2008    昭和25年以来、広島県農産物検査条例(畳表)が公布されていたが、民営化移行により廃止、(財)広島県い業会館の独自検査規格に基づく格付制度に移行した。

JAS法改正により登録認定機関都道府県による格付を廃止され、
(財)広島県い業会館が「畳表」の登録認定機関(登録番号第104号)として平成20年8月29日付登録された。

そのため、県内認定製造業者が格付、JASマークを自ら添付されるようになった。

広島県藺製品商業協同組合申請により
地域団体商標(ブランド)に「びんご畳表」が登録第5175003号として特許庁より平成20年10月24日付登録された。

     
     
   

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